新名残常磐記(なごりのときわぎ)
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さぎ草伝説 4 人見 輝人 作
「常盤、野辺に散る」

 内海父子討たれ、鈴木藤三郎も思わぬ災難を受けて、家名をつぶされました。 その祟りでもあるのか城中何かと騒がしく、卿のいらだちは益々募ったのです。 そして遂に常盤の殺害を決意するようになったのでした。これを漏(も)れ聞いた淀殿は驚いて、勝国寺法印と共に御前に参り、死罪申し付けのことは固く御止め下さるよう進言しましたが、「許さぬ」の、一言のもとにはねつけられてしまいました。

 淀殿は更に訪ねて「せめて和子様誕生までは延命を」と、懇願しましたがこれも容れられませんでした。 卿の決意の固いことを知った淀殿は、慌(あわ)ただしく常盤の方を呼び寄せて、死罪を申し付けるの決意の変わらぬことを伝えると共に、「このまま城にいては、刑の下るのが目にみえています。即刻ここを立ち去り、和子様無事誕生までは、いかなる困難があろうとも辛抱して生き延びよ。 やがて再びお願いに上がり、身の明かしを立て、取りなしてあげましょう」と。
 この情けある言葉に常盤の方は、涙ながらにお暇(いとま)ごいを申し上げて、城を抜け出したのです。 時は七月七日の七夕の宵闇迫るころ、折りしも城中では七夕の宴の開かれる時刻で浮き立ち、誰一人として気付く者はありません。従う者はわずかに幼児からの付き人であった石川五郎と乳人(めのと)の奥沢でした。 第一に目指すは父出羽守が登城の帰途必ず参詣した常在寺である。

 妊娠八カ月の身重の体、あえぐ息を一杯の井戸水に癒(いや)し、無事に逃れられることを一心に祈ると共に、幼児より肌身離さず持っていた鬼子母神像を井戸に投げ入れて、慌(あわ)ただしく立ち上がりました。 このことは早くも悪意を抱く女房達から卿の耳に伝わり、早速追っ手が命じられました。「必ず討ち止どめよ」と言いわたされたのは、松原佐渡・同兵庫・熊沢入道です。それぞれ支度をしてすぐさま馬を走らせました。
 
一方、逃れ出た三人は、月明かりもない闇夜の道を、心は焦れども脚は進まず、励まし合いながらよろめく歩をようやく伸ばして、馬引沢中郷までたどり着きました。 常盤の方は、濡れ衣を着せられ、誰にも語れぬ心痛の日々を過ごし、今またこの苦難に会って、この先一歩も脚を進めることができなくなってしまっていたのです。 余りにもいたわしい姿に涙をこらえ、肩をさすり足をさすりながら励ます五郎と奥沢に向かって、常盤の方は、「もはやこれまでです。

 女房達のそねみにより、無実の罪に落とされたつらい有様を、親兄弟に伝えて下さい。私は女に生まれたとは言え、恥を知る武士の子、何で道に外れた行いができましょうか。 その潔白は神々や仏の知る所です。 御所様は一旦讒言に迷わされても、やがて真実に目覚め、野末の露(つゆ)と消えた私を哀れみ、お許し下さるでしょう。 従って今生の恨みはありません」と、涙を流し、この世の名残りとばかりに筆を執り、

     御所様へ
        君をおきてあだし心はなけれども
             うきなとる川 沈みはてけり
     淀の大公へ
        なれなれて見しは名残の御所桜
            かくるゝにてもかへり見しかな
     同
        この世こそ契り空しく去りぬとも
            世々の末には生まれ逢ふべし
     若君の御事を
        人といふ名をかる程やあさ露の
            消へてぞかへるもとの雫(しずく)に
     女房達へ
        あしかれと人をばいはじ難波(なにわ)なり
            我が身に咎(とが)のかかる白波
     古里の母へ
        古里にかかる浮目に蓬ふ事を
            しらでぞ人の月を見るらむ
     我が身の上
        露じもと消えての後はそれぞとも
            松風ならで誰かとはまし

 と、それぞれに書置きして五郎に持たせ、この上生き永らえるよりはと自害を決意し、二人に奥沢の城に帰って報告するように命じました。 幼いころより仕えて来た二人です。 どうして姫君を一人おいて立ち去ることができましょうか、言い争う間にも駒の足音がカツカツと身近に迫って来たのです。 はっと驚く間もなく熊沢入道を先頭に、追っ手が四方を取り囲みました。

 入道は馬上から声を大にして、「いずこまで逃れるつもりでおられるのか、我が君の命により討ち取りに参りました。潔く御自害なされ」と、呼び掛ければ、常盤の方はきっと居住まいを正し、「追っ手の方々よ、我が身のことはとにかく、胎内にやどらせられるは主君の御子よ、見下すとは無礼であろう」と、臆することなく凛とした言葉を響かせました。一同は恐れて馬を下りました。

 「も早これまで」と、観念した常盤の方は、日頃なにかと厚意を持ち助けてくれた松原佐渡を呼び「我が首を打て」と命じ、ひたすら胎内の和子の存命を願い西に向かって合掌し、三度(みたび)「南無観世音大菩薩」と唱えつつ御年十九歳、胎内の和子は八カ月、共に草むらを朱に染めて、哀れにも上馬中郷の露と消えたのです。 主の最後を見届けて、石川五郎・奥沢の二人も共に刃を胸に野に伏したのでした。

 討っ手の人々は、泣きながらに幕を引き回し、死産の和子を改めました。それはいたわしい姿の若君であったのです。一同は泣き泣き草むらに葬り、少し引き下げて更に一塚を築き、母君の死骸を埋めました。討っ手の報告はそれから間もなく城に届けられました。

「蓬誉尼の進言」

 弦巻村の一隅に小さな庵を建て、ひっそりと住む「蓮誉(れんよ)」という尼がいました。 この尼は若い盛りには御所に宮仕えしていましたが、年頃世の中の無情を感じて尼となり、仏に仕える毎日を送っていたのでした。 この日の深夜、異常な騒がしさに庵を出てみると、旧知の中地左衛門佐に出会いました。 事情を聞きあまりの浅ましさ、いたわしさに、すぐさま中地と共に駆け付けて見れば、死骸は草むらを朱に染めて倒れ伏し、見るも無残な姿でありました。

 思わず手を合わせ共に回向を唱えて後、中地が常盤の肌に付けられていたお守り袋を取り出すのを見て、はっと気付くものがあったのです。 それは、このような大事には「御胞衣(おんえな)」に印があるものと、古今の話に伝え聞いていたからです。 泣きながら庵に胞衣を持ち帰り、沼水で洗い清めてみれば、予想通り鮮やかな菊・桐の吉良氏の紋章が浮かび上がったのです。 

 蓮誉尼は取るものも取りあえず、淀の大公のもとに走り行き、くわしくなりゆきを申し上げました。 話を聞いた淀殿は、早速に高橋の局を御所に遣(つか)わし、改めて常盤の無実の証を添えて、頼康卿に伝えました。この話を聞いた頼康卿をはじめ御所中の者は、あまりの哀れさに袖をしぼらなかった者はなかったと言います。

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